旅を豊かにする本

マルーシの巨像 ヘンリー・ミラー   (ギリシャ)

この本(The Colossus of Maroussi) の背景

この本はアメリカの小説家ヘンリー・ミラー(Henry Miller)が1939年の夏にギリシャを訪れた時の旅の記録である。1941年(第二次世界大戦さなか)に出版。この頃の世界情勢は非常に不安定であった。1936-39年スペイン内戦(Spanish Civil War)(ソビエト連邦、メキシコ、ドイツ、イタリア、ポルトガル、日本、その他欧米市民知識人らも巻き込んでの内戦。ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls』はスペイン内戦を題材にしている)に始まり、1938年ドイツの東欧侵攻が始まる。1939年9月ドイツがポーランドに侵攻し、ついに第二次世界大戦(World War II)が勃発。

この本の魅力・感じたこと

この本の大事な背景は(先述した)戦争の足音の他に、実はもう二つある。一つ目は誰もがミラーの祖国アメリカを夢・希望の国(誰にでも平等にチャンスが与えられている、貧しさからの脱却をかなえられる)と思っていたことと、二つ目はしかしその内情は実は空虚であり(物欲を満たしても本当の喜びは見出せない)、アメリカ的生活(効率を求め、資本を増やし、あらゆるものを手に入れていく)はいずれ破綻するとミラー自身が思っていたことだ。

そんな彼がまだ近代欧米化されていない頃のギリシャを旅し、それまでのすれた都会生活で失った頭と心を取り戻していく。

霧が立ち込めた視界がクリアになっていくように、輝きを失った瞳に光が戻ってくるように、ミラー自身に生き生きと活力・生命力がみなぎっていく様子を感じとることができる。

また、ミラー自身の独特の感覚と表現力もすばらしく、読者はギリシャの空を一気に駆けあがり、飛翔している感覚になるかもしれないし、静かな思考の森の奥へとミラーと一緒に歩いている感覚になるかもしれない。

美しく、力強く、繊細に、ダイナミックに、時には溢れるような躍動感をもってミラーの内部にわき起こった一種の讃美歌、詩のようでもあり、哲学的な要素もあるこの本を情熱的でロマンチックにしている。

また、ギリシャ各地の旅先の様子をミラーがどのように描いているのか・・・も楽しめるだろう。個人的には特にポロス島の部分に興味を掻き立てられ、ぜひ行ってみたいと思った。そして実際旅をして改めてミラーの(詩的な)言葉をたどってみる・・・という楽しみ方ができた。本中の黒いワインについても同様である。

この本の美しく詩的な部分ばかりを強調してしまったが、ミラーが鋭い感覚から浮き上がらせた真理、もしくは真理につながる思索(わたしたち人間とは何なのか、徹底して人間的になるとはどういう意味なのか、題名にある巨像とは何を意味しているのか、平和の本当の意味とは何か、など)については、われわれ読者も考えてみなければなるまい。

最後に

最後にもう一つ、この本について感じたことを述べさせて頂こう。それはこの本が、単なる紀行文ではなく、単に(当時の)ギリシャを賛美する本でもないということだ。実はわれわれ人間一人一人に対する挑戦を促す本だと思っている。人類は戦争とは無縁でいられない。そんな我々にこの本を通してミラーは言い続ける。

「戦争とは全て人間精神に対する敗北である」(本文より引用)

戦争を争いと言い換えても良いだろう。当時ミラーは戦時下でこの本を発表したわけだが、それから約80年が経とうとしている今、地球人はいまだこの壁をクリアできていないのである。