旅を豊かにする本

戦史 トゥキュディデス  (ギリシャ)

戦史(History of the Peloponnesian War)とは

紀元前5世紀、古代ギリシャの国々が、アテナイ側/ペロポネソス側、それぞれの陣営に真っ二つに分かれ、今までにないギリシャ人同士の大戦争になるだろうことを、その時代に生きていた歴史家:トゥキュディデス(※)(紀元前460~400年頃?)が「”史上特筆に値する大事”」になると予測し、記録したものである。(※ツキジデスとも表記される)

この本の魅力

事実、当時のギリシャをかつてない大動乱に陥れたこの大戦争の名は、今日、ペロポネソス戦争(紀元前431~404年)として、知られている。もちろん、これだけの大きな戦争が、前触れもなく、突然、紀元前431年に始まったわけではない。そうなったのには必ず原因があり、そして、その原因にも、さらなる原因があり、そして、そのさらなる原因にも、また別の原因があり…と、追及すれば果てしない。

そんな複雑極まりない事情が絡み合い、積み重なっていった大戦争に至るまでの歴史的経緯を、トゥキュディデスは、まだ「ヘラス(ギリシャ)」という、地域を指す言葉さえなかった頃まで時代をさかのぼり、書き綴ってくれている。よって、読者は、その大戦争に至るまでの詳細な事柄/状況をも、知ることができる。

また、史書的な本でありながらも、トゥキュディデス本人の”人となり”がにじみ出ている点も興味深い。歴史家としてのポリシー、姿勢というものを、古代に生きる彼がどのように考え、つらぬいていたかも知ることができる。

ペリクレス(Pericles)の演説に思ったこと

また、この本にはアテナイをかつてないほど発展させ、黄金時代に導いた政治家:ペリクレスの演説内容が書かれている。と言っても「”…演説は、一字一句の記録は不可能であるため…主旨をできる限り忠実につづった”」と、トゥキュディデスが述べている通りなのだが、それにしても、古代の政治家の演説内容を、今に生きるわれわれが知ることができるだけでも驚きである。しかしながら、さらに驚きなのは、その演説文の行間から立ち昇る、ペリクレスの並ならぬ天才ぶりである。

それは戦没者の国葬の演説であったのだが、アテナイ人の優秀さ/勇武の気質/美を愛し、知を愛す自由人の品位を「”ギリシャが追うべき理想の顕現”」「”今日の世界のみならず、遠き後(のち)の世に至るまで、人々の賞嘆の的となる”」と説き、彼の言葉は、われわれは崇高なアテナイ人である、という誇りを各人に呼び起こし、国民一人一人を一つにまとめ上げ結集させる、たいへん強力なもの、と感じた。

もし、わたしがその場にいたならば、自分がアテナイ人であるという誇りに恍惚となり、力強くも、気品あふれるペリクレスの言葉に酔いしれ、この美しいアテナイを守るためならば、命をかけることもいとわない、そして、どこまでも彼についていきたい、と思ったかもしれない。

(※こういったことは、士気を高めるために、軍指導者(政治家)がよく用いる手段であろう。実際、近年の世界大戦でも、見られたことであり「”彼の著作は、今でも世界中の大学や軍事大学で研究されている”」と、ウィキペディアの英語版には記載がある)

疫病の描写

ペリクレスの国葬演説は、紀元前431年の冬の出来事であったが、それから間もなくして、翌年の初夏(紀元前430年5月)アテナイの市街地から疫病が発生。注釈によると、主たる症状を書き記したトゥキュディデスの語彙と用法は「”ヒッポクラテスの医学書と正確に一致している”」とのこと。

こういった点もふまえ、客観的に、興味深く読むこともできるが、しかしながら、正確さに徹し、感情を排したトゥキュディデスの記録には、恐ろしい症状、神殿の屍(しかばね)の山、町の無秩序化、やけになってゆく人々、信心深い者/そうでない者関係なく訪れる死などがつづられ、ふるえる思いで読み進んだ。トゥキュディデスは「”もっとも恐るべき…”」こととして「”…病にかかったとわかった人たちが、たちまち絶望に突き落とされ、あきらめのため、抵抗さえしなくなった”」と書いている。これは、トゥキュディデスの精一杯の感情的表現なのかもしれない。

皮肉

それから、トゥキュディデスはこんなことも書いている。

「ドーリス人との戦いがくる時、疫病も一緒についてくる」という昔の歌の予言について、この歌の「疫病(loimos)」の部分が「飢饉(limos)」なのではないか、と激論が交わされたが、今回(の疫病)のことがあり「疫病(loimos)」に落ち着いたという。(本文要約)

これに対するトゥキュディデスの見解は、「”また…ドーリス人と戦うことがあって、その時、飢饉(limos)が起これば、予言の語句をこれに合わせて歌うに違いない”」とのことである。まあ、彼なりのブラック・ユーモア…といったところだろうか。

※ドーリス人は、ペロポネソス軍を指していると思われる

トゥキュディデス(Thucydides)のペリクレスへの評価

トゥキュディデスは、ペリクレスのことを「”高い評価を受けた実力者で、識見をそなえ、金銭に潔白で、権力には媚びない人”」「”権力の座にあっては、己の善しとすることを貫いた”」「”傍若無人の気勢には、相手が畏怖するまで叱りつけ、おびえる群衆の士気をたてなおし、自信を持たせることもできた”」と述べている。

しかしながら、アテナイ人は、戦役と疫病に至ったのは、ペリクレスのせいとした。よって再び、ペリクレスは反論の演説を始める。

「国の安泰=(イコール)個人の益である。よって、市民は力を合わせ、国を守る他に道はない」、そして「開戦を提唱した私をとがめること=(イコール)私の開戦論に賛同し/可決した自分自身をとがめていることと同じ」と説く(本文要約)

さらに、ペリクレスは…

「アテナイのリーダーとしての完璧な資質を、私以外の誰が持っているのか、他の誰よりも優れた資質を私が持つと判断し、その私が唱えた開戦案を支持したにもかかわらず、今になってのそしり…黙ってこれに甘んじることはできぬ」と激しく反論する一方「ここまで諸君が弱気になっているのは…とりわけ疫病が原因…」(本文要約)

と、矛先を疫病に回避させた後、ペリクレスは市民に発破(ハッパ)をかけ、勇気づけ、気持ちを奮い立たせることに成功する。さすがである。

すでに述べているように、演説内容は、トゥキュディデスができる限り忠実に主旨をつづったものなので、一字一句が正確というわけではない。しかしながら、その行間には、未来をすでに見据えていたペリクレスの、国の最善を考えた思いが、国民にはなかなか伝わらないもどかしさや、(しかしながら)その思いを全身全霊で、必ず国民へ伝え、アテナイの繁栄を守りぬく!というペリクレスの気迫が伝わってくる。

熱と激しさを帯びながらも、格調高く力強いペリクレスの演説は、間違いなく、この本のみどころの一つであろう。

しかしながら、そんなペリクレスも、先の疫病に倒れてしまう。注釈によると「”…紀元前429年、秋ごろ、疫病にかかり衰弱死したと言われている”」とのこと。

トゥキュディデスは、アテナイのペリクレス時代(黄金時代)を「”実質、秀逸無二の、一市民による支配だった”」と評価している。

トゥキュディデスは、ペリクレス死後、アテナイが数多くの過失(特に、シケリア遠征など)を重ねながらも、降服するまでの間、アテナイを支え続けた莫大な国力を思い「”これほどに有り余る国力を、ペリクレスは、開戦当初すでに知っていたからこそ、ペロポネソス同盟だけを相手の戦いであれば、アテナイの勝利は、まことに易々たるべきことを予言して、はばからなかった”」としている。

失って、改めて思い知る、ペリクレスの聡明さ。そして、これらの複雑な出来事を深く分析し、一つの書にまとめ、後世に遺してくれたトゥキュディデスのすばらしさ…に感動するばかりである。

※シケリア…イタリアのシチリア島のこと

ペロポネソス戦争がもたらしたもの

この「戦史」で興味深いのは、トゥキュディデスが、単なる”戦いの記録”を遺したわけではなく、この大戦争を経て、秩序は乱れ、人々が過激さや性急さ、横暴さ、残虐さ、無思慮、強欲、嫉妬、憎悪、復讐心、猜疑の念…に支配され、狂気の沙汰が極限まで日常化していった様をも記録していることだ。

処々のギリシャの国々(都市)で、アテナイ派(民衆派)vs.ラケダイモン(ペロポネソス)派(寡頭派)の内部紛争が生じた。いずれかの陣営と同盟関係が生じるため、自派の勢力拡大/反対派の弾圧に、外部勢力の導入を簡単にはかれるようになった。(本文要約)

一つの国(ポリス)の中でも、真っ二つに分かれての争いとなり、それはやがて、人間性をかなぐり捨てた、恐ろしくもおぞましい日々の始まりとなった。

トゥキュディデスがどう表現しているかというと「”…無思慮な暴漢が、党を利する勇気と呼ばれ…”」「”沈着とは、卑怯者の口実。気まぐれな知謀こそ、男らしさを増すもの。安全を期して策をめぐらすことは、耳ざわりの良い断り文句と思われた。”」「”不平論者こそ、当面の信頼に足る人間とされ、陰謀通りことを遂げれば、知恵者。その裏をかけば、ますます冴えた頭と言われた。”」「”人の道を講ずる者は、党派の団結を破る者、反対派に脅かされている者とされた”」「”人の先を越して悪を成す者が褒められ、ついに肉親のつながりは、党派のつながりよりも弱くなった”」「”党派は共犯意識によって固められ、悪行を成して利口、人々は善人になることを恥じ、悪人たることを自慢した。”」

トゥキュディデスは「”原因は、物欲と名誉欲に促された権勢欲…”」であると述べている。

さらに、この両派は「”…言葉上、国家公共の善に尽くすと言いながら、公の益の私物化、反対派に勝つために、極端な残虐行為すら辞さず、受けた側も過激な復讐をやった”」「”…不正投票、実力行使の横暴であれ手段は選ばず…”」

また「”中庸を守る市民らも…両極端の者から不協力をとがめられ、保身的態度をねたまれ、潰滅していった”」「”…率直さは世の嘲笑をうけ姿を消し、市民は互いに敵視し合った…”」「”…人間生活の秩序が根底からくつがえされ、その極に達し、正義を蹂躙し…”」

行間から、トゥキュディデスの悲鳴が聞こえてきそうだ。

また、トゥキュディデスは「”己より優れた者を敵視する嫉妬心が、このような破壊力を持っていなかったら、人間が神よりも復讐を、正義よりも利欲を、崇めることは生じなかっただろう。”」と述べている。これを読み、だいぶ昔に「”男の嫉妬心はこわいよ~”」と、笑いながら言っていた、ある大物政治家を思い出した。

トゥキュディデスに思ったこと

トゥキュディデスは「戦史」を書き上げる際に、事実を見極め、正確さを期すること、に多大なる苦心を伴った、と述べている。彼によると「”誤伝が実に多く”(現在の出来事においてさえも)」そして「”大多数の人間は、真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳を傾ける”」とのこと。まるで、トゥキュディデスが、二千年以上の時を超え、現代の我々に警鐘を鳴らしているようにも聞こえ、ハッとさせられる。

また、戦争を通じた証言も「”敵味方の感情に支配され、供述に食い違いが生じた”」と、彼自身述べていることから、そのまま証言を鵜呑みにすることはせず、またトゥキュディデス自身も、アテナイ側/ペロポネソス側のどちらに偏ることなく、中立な視野を持って執筆に臨んだのだろうことがうかがえる。

実は、トゥキュディデスはアテナイ人であり、注釈によると「”トゥキュディデスが悲劇詩人エウリピデスに贈ったといわれる墓碑銘には、『そのふるさとは、ギリシャのギリシャ、アテナイ』という一句が…”」あったそうである。この短いトゥキュディデスの言葉の中には、アテナイへの思いがあふれており、歴史家としてのトゥキュディデスとは違った、別の顔を見せてもらった気がした。

この戦史では、自身の感情をなるべく封印し、ひたすら公平に、正確に、事実のみを手掛かりに徹していたトゥキュディデスであるが、たくさんの命が散ってゆき、人々の日常と心は失われ、目を覆いたくなるような惨状を目の当たりにしても、なお、自身を律して記録を続けることは、並大抵の精神力ではないと感じた。互いに深い傷を負い、疲弊しながらも、どちらかが屈するまで終わらない戦争に、常人だったならば、冷静に記録など、できるはずがない。

改めて、歴史家の、強靭な精神を思う。

理由

それでは、なぜ、こんな思いまでしてトゥキュディデスは記録を続けたのだろうか?と、思うところだが、それについても、彼はきちんと読者へ向けてメッセージを残している。

「”…今後、展開する歴史も、人間性の導くところ、再び、かつてのように、それと相似た過程をたどるであろうから、人々が出来事の真相を見極めようとする時、わたしの歴史に価値を認めてくれれば十分である”」とのことだ。

なんと、聡明な人であろうか。

そんなトゥキュディデスが生涯をかけ、苦労して執筆に挑んだ人類の遺産とも言える「戦史」をどう生かすかは、われわれしだいなのだ。

このトゥキュディデスの「戦史」の記録は、紀元前411年の記述で、とつぜん終わっている。注釈によると、トゥキュディデスは「”未完で世を去った…とも考えられている”」とのこと。正確な理由は、今のところ、わかっていない。

しかしながら、さらなる注釈によると彼は「”スパルタのリカスの病死を述べているが、そのリカスの名が紀元前398年にタソスに駐留していたスパルタの役人の一人として、碑文に刻まれていた”」そうで、トゥキュディデスは「”紀元前395年までは生存していた”」との見解があるそうだ。

また、ウィキペディアの英語版によると「戦史」は「”紀元前 404 年の終戦後も修正され続け…”」たそうなので、トゥキュディデスは、残り7年分の戦史の情報/証言集め、及びそれらの裏取りをしながらも、修正を加え続ける日々を送っていたのかもしれない。

トゥキュディデス自身、この戦争で将軍として参戦するも、アテナイにとり、重要な位置を占めていた都市:アンピポリスをスパルタに奪われてしまい、その責任を問われ、20年もの亡命生活を強いられるなどし、執筆が中断することは、たびたびあったのだろう。

最後に

実は、ギリシャ旅行前に読んでおきたいと思いながらも、この「戦史」という、いかつい、難しそうな題名から、なかなか手が伸びなかった本であった。

しかしながら、トゥキュディデスが述べている通り、人間の性質というものは、そう変わらないもので、二千年以上前に書かれたこの本のあちこちに「今」や「現代」を見る思いがした。ショックではあったが、人間の性質がそう変わらないのならば、逆に「”今”」に生きるわれわれは、いまだ、この本から多くの事を学べるのだ、と気づいた。

また、書き切れなかったが「事実は小説より奇なり」と言われるようなエピソードも「戦史」には含まれていた。「ピュロス・スパクテリアの戦い」の記録であるが、オチがいくつもつく上に「”この事件くらい…ギリシャ人の通念をくつがえしたものは他になかった”」とトゥキュディデスが述べるほどである。

ここで、突拍子もなく話は飛ぶが…、誰か、「戦史」のこういった数々のエピソードを、釈台(しゃくだい)を叩いて調子をとりながら、歯切れのよい口調で読み上げる「講談」で、取り上げてくれないだろうか?

よく「講談」では軍記物が題材にされているし、「戦史」のいくつかのエピソードも違和感なく馴染む気がする。「古代ギリシャ×日本の伝統芸能」のコラボ、面白そうと思うのは、わたしだけだろうか?

 

●「””」内は、本文の引用です。

●冒頭写真は、アテナ像、アテネ、ギリシャ

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