ひとり旅日記 ギリシャ

女ひとり旅日記 ミケーネ遺跡到着! 獅子門ほか ギリシャ旅131

ミケーネ遺跡、入場

遺跡周辺の景色を堪能した後、入場料(当時12ユーロ)を払い、遺跡に入る。

下写真:獅子門に伸びる小道。

ミケーネ遺跡

 

道案内の矢印に従い、まっすぐな小道を進む。そして、突き当たりの、今から3000年以上前に造られた、サイクロプス式石積の壁を右折する。

このサイクロプス(キュクロプス)とは「一つ目の巨人」のことである。神話では、ミケーネの設立者であるペルセウスが、巨人に城塞を建設させたので、その名が石積についた、とされている。

展示ボードによると、城壁は3つの異なる段階 (紀元前1350年、紀元前1250年、紀元前1225年)を経て、建設されたそうだ。要塞化されたエリアは、ほぼ三角形の形をしており、表面積は3万平方メートルになるという。

ミケーネ遺跡 サイクロプス式石壁

 

サイクロプス式石積の壁を右折し、目の前の坂道を見上げると…

?!

ミケーネ遺跡 獅子門(ズーム)

 

なんと、いきなり、獅子門が姿を現わす。

わたしは、まったく心の準備ができておらず、不意打ちを喰らった。ミケーネ遺跡の目玉の一つである獅子門は、「門」と言えども、もうちょっと奥まった場所にそびえているかと思ったのだが、入り口からまっすぐの小道を右折した瞬間、坂上(さかうえ)から訪問者を見下ろす形で現れたのだった。

下写真:坂上(さかうえ)の獅子門(**写真を2枚つなぎ合わせています。不自然なつなぎ目や、色の違いはご容赦ください**

ミケーネ遺跡 獅子門

 

石積の迫力。まさに、巨人が積み上げた?!

ミケーネ遺跡 獅子門

 

獅子門を見上げるうちに、驚きは、感動に変わっていく…。

ミケーネ遺跡 獅子門

 

展示ボードによると、一枚岩の敷居、鴨居と鴨居の両脇を支える柱は、礫岩(れきがん)とのこと。ヨーロッパ最古の浮彫彫刻であろう、鴨居の上のライオンのレリーフには、もう頭部は残っていないが、おそらく、それらはステアタイト(鉱物の一種)だったと推測されているそうだ。 門は両開きの扉で閉められ、スライドバーで固定されていたとのこと。紀元前1240年頃の建造だそうだ。

獅子門の裏側。彫刻はなかった。

ミケーネ遺跡 獅子門

 

しかしながら、獅子門の裏側も、人気の写真スポットであった。

ミケーネ遺跡 獅子門

 

門を額縁にみたて、美しい写真が撮れる。緑に続く丘、そして遠くにかすむ山までが見渡せ、本当に、気持ちの良い場所である。

ミケーネ遺跡 獅子門

 

宮殿跡へ

さて、獅子門を通り抜けると、ルートは2つに分かれる。円形墳墓Aへ下るか(右手)、宮殿跡が残る高台に上るか(直進し左折)である。わたしは、先に、宮殿跡方面(高台)へ上ることにした。

下写真:獅子門を通り抜け、振り返ったところ。(左手に小さく映るのが獅子門)

獅子門

 

下写真:獅子門を通り抜け、左手に広がる宮殿跡方面(高台)に続く斜面。(**写真を2枚つなぎ合わせています。不自然なつなぎ目や、色の違いはご容赦ください**

獅子門

 

下写真:獅子門を通り抜け、すぐ右手の下方に見える「穀倉」跡(ピンク円内)
展示ボードによると、現存する2つの地下室から炭化した穀物が見つかったので「穀倉」と名が付けられたそうである。北側がサイクロプス式石壁に隣接した形状で、2つの廊下と少なくとも地上の2つの部屋に通じる階段が1つあったとのこと。紀元前13世紀後半に建築され、破壊されたのは紀元前12世紀半ばだそうだ。

ミケーネ遺跡 穀倉

 

下写真:獅子門を通り抜け、右手の下方に広がる穀倉と円形墳墓A。(**写真を2枚つなぎ合わせています。不自然なつなぎ目や、色の違いはご容赦ください**

ミケーネ遺跡

 

下写真:獅子門から伸びる、高台へ上る道。(**写真を2枚つなぎ合わせています。不自然なつなぎ目や、色の違いはご容赦ください**

ミケーネ遺跡

 

展示ボードによると、この坂道は、紀元前13世紀後半に、幅の広い記念碑的な傾斜路の形に、一から改造されたものらしい。サイクロプス式の擁壁によって支えられ、片岩(へんがん)の薄い石で舗装されたそう。獅子門の中庭から始まり、岩の傾斜に沿って南端で終わっている。

下写真:高台へ上る道から、景色を眺める男性。(**写真を2枚つなぎ合わせています。不自然なつなぎ目や、色の違いはご容赦ください**

ミケーネ遺跡

 

獅子門を通り抜けたこの場所も、かなりの高さがある。

ミケーネ遺跡

 

さらなる上の宮殿跡を目指すも、その前に、ここで息を整える。

下写真:円形墳墓Aの南側にある「傾斜路の家」と「戦士の壺の家」跡                    展示ボードによると、少なくとも2階建てだったと思われる「傾斜路の家」だが、今は1階の基礎部分が残るのみ。小さな傾斜路が横にあったことから、その名が付けられたとのこと。「戦士の壺の家」は、ミケーネの戦士を描いたクラテル(ワインを水で割るのに使われた壺)の出土にちなんで名付けられたそう。建物は、地下室と貯蔵庫で構成され、炭化したオリーブが入った貯蔵甕 (ピトス) や青銅の壺が発見されたとのこと。両方の家で中期ヘラディック時代と後期ヘラディック時代初期の埋葬物が発見され、この地域全体が、先史時代の墓地の一部であり、要塞の壁が建設される前は、それらが丘の西斜面を占めていたことを示すという。

ミケーネ遺跡

 

ふたたび、円形墳墓A。

ミケーネ遺跡

 

つづく

冒頭写真:ミケーネ遺跡、獅子門

ミケーネ遺跡についての詳細は、こちらをご覧ください。

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