ホテルから遺跡までの道のり
ホテルのチェックイン後、身なりを軽装に整えると、わたしは遺跡へと出発した。目抜き通りであるプラクシテルス・コンディリ通りをまっすぐ南へ進み、突き当りを左へ。迷いようのない、明快なアクセスである。
ここ、オリンピアは、遺跡や博物館が徒歩圏内にあり、さらに、そこに至るまでの道に、みやげ屋、レストラン、食料品店などが、コンパクトにギュッと詰まっている。大変、わかりやすい町である。
しかしながら、この日、一番暑くなる盛りに見学へと向かったため、繁華街であるこの通りには、人っ子一人歩いていなかった。何てことのない距離だが…
とにかく暑い!
暑さに負けそうになりながらも、なるべく日陰を歩く。そうして、通りの突き当たりを左へ曲がると、クラデオス川にかかる橋に出た。
橋の上から川を見下ろすと、浅いけれども、きれいな水が流れていた。この辺りは、木々も生い茂り、涼し気な印象だ。
程なくして、チケット売り場にたどり着く。遺跡と博物館の共通チケットを購入。そして、遺跡の入口にたどり着いた。さらに奥へ進めば、考古学博物館がある。
そこで、わたしは一瞬、迷った。この暑さを考えると、先に博物館見学の方がいいかもしれない、と。遺跡も博物館も(当時)夜8時近くまでオープンしていた。このとき仮に、遺跡見学を後回しにしても、余裕で見学できる明るさはあるだろう、と思われた。(夜、暗くなるのが遅いので)
にもかかわらず、わたしは、なぜか気が急いてたまらず、先に遺跡を選んでしまったのだった。
オリンピア遺跡見学
この遺跡は、おびただしい数のモニュメントがあるため、印象に残ったものをざっと書き記していこうと思う。
入場すると左側に現れるクロニオンの浴場跡。
展示ボードの説明によると、多数の機能を備え、多くの建築的プロセスをもつ大規模な複合施設とのこと。ヘレニズム時代に築かれた中庭と浴場の上に、すばらしいモザイクの部屋がローマ時代に建てられたそうだ。3世紀の終わりに地震で破壊されてから、最後に修復がされた5世紀までの間、浴場は農作業の場として使われていたとのこと。
そして右側には、ギムナシオン(体育館)跡が広がっている。展示ボードの説明によると、ギムナシオンは、周りを柱廊に囲まれた徒競走、槍投げ、円盤投げの練習場だったそうだ。
下の写真は、ギムナシオンの一角。東柱廊跡が発掘されている。
ずっと奥まで続く、ギムナシオンの東柱廊跡。
この柱廊は、雨天時に短距離走の練習で使用する、屋根付きの走路だったという。
東柱廊が終わっている辺りの石群。
展示ボードの説明によると、これは、紀元前2世紀の終わりに、ギムナシオン南東の角に増築されたプロピュライア(入り口の門)跡だそうだ。当時はさぞ美しかったであろう、豪華な装飾が施された柱頭が、今や当時の面影を残すのみとなっている。
さらに道を進むと、右奥に、パレストラ(競技の練習場)の柱が見えてくる。
左手には、木の向こう側にフィリペイオンの白い柱がチラチラ見える。ちょうど裏側から(?)見ている感じ。
さらに、フィリペイオンの次に現れたのは、ヘラ神殿。木立の間から、チラチラと魅力的な建造物が見え隠れする。
パレストラに入った所。と言っても、今は列柱しか残っていない。競技の練習スペースは、四方を柱廊と部屋(更衣室や体に油を塗る部屋、トレーニング室、雨天用のレスリング室など)に囲まれた、正方形の中庭のような場所だったようだ。
今では、木立が茂る美しい廃墟となった。
涼しい朝に訪れることができたら、本当にさわやかで癒されそうな場所である。
パレストラという響きから、思わずパレス(宮殿)を想像してしまうわたしだったが、古代の石柱が立ち並ぶ、緑の中の美しい幻想的な雰囲気に(当たらずとも)悪くはない、と思ってしまう。
パレストラを抜けた所にある、ギリシャ(クラデオス)の浴場跡付近の様子。
ギリシャ(クラデオス)の浴場跡。遺跡に来る途中で渡った、クラデオス川のそばに位置するそうだ。
ギリシャ(クラデオス)の浴場に隣接するローマ時代の宿泊所跡
イローオン(小神殿)近くの石群からパレストラを見たところ。
イローオン(小神殿)跡。(見にくいが)石が円を描くように配置されている。その奥の建物がフィディアスの仕事場。
フィディアスの仕事場の内部。ここで13メートル以上もある、巨大なゼウス像が作られたそうだ。今から約2500年前のことである。
大勢の職人をフィディアスが指揮する、活気あふれるシーンを想像しながら、何か、当時の工房を忍ばせるものがあるかもしれない、と期待する。
美しい柱の装飾。
途中で見つけた碑文。何と書かれているのだろう?
ここは、左右対称のシンメトリーの部屋。奥にある透かし彫りの石細工が見事。
(上写真のズーム↓)
しかしながら、他の建物に比べ、なぜここだけ保存状態が良いのかと思うも、5世紀にキリスト教教会として一時期、利用されたためらしい。確かに、透かし彫りの仕切りの中央に十字があり、その奥には半円を描くように外側に出っ張った石壁が建てられ、教会の祭壇(内陣)部分のスペースに見える。
…となると、今残っているのは、ほとんどが5世紀の教会当時のものと言えるかもしれない。建物の壁も途中からレンガ積みになっており、建築当初のものは、べースの石の部分しか、もう残っていないのかもしれない。
さらに(下写真↓)
この部分の壁の土台も見ればわかる通り、後世の人々が、周辺の廃墟から拾ってきた石をあてがい、フィディアスの仕事場時代(紀元前5世紀)にはなかった壁を作ったのかもしれない。
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…さて、次はレオニデオン、オリンピア遺跡で最大の宿泊施設跡に行ってみたいと思う。
冒頭写真:パレストラの柱廊